法の下で公文書を使うということ ―公文書管理法とアーキビストの役割―
島田克彦(近畿部会運営委員)
全史料協近畿部会第27回総会に引き続く第151回例会は、2019年6月15日、京都府立京都学・歴彩館で開催されました。本例会では「法の下で公文書を使うということ ―公文書管理法とアーキビストの役割―」という論題の下、瀬畑源氏にご講演いただきました。司会は運営委員の島田克彦がつとめました。当日の参加者は34人でした。
新年度の例会企画について相談した運営委員会では、公文書管理法施行下で公文書をめぐる不祥事が続発する中、全史料協でも議論してきた法の理念に基づき、国民はいかにして主権者たりうるのか、いかにして「国民共有の知的資源」を取り戻すことができるのか、をめぐって議論が起こりました。多くの会員が共有するであろう、こうした問題意識に応える企画とすべく、総会後の例会では瀬畑源氏をお招きし、意見交換することとなりました。
日本現代史の研究者である瀬畑源氏は、象徴天皇制の形成・定着過程に関する研究を進めるために、宮内庁書陵部に公文書公開を請求する取り組みを続けてこられました。瀬畑氏は利用者の立場から公文書の管理と公開に対する問題関心を深め、最新刊『公文書管理と民主主義』(岩波ブックレット、2019年)をはじめとする著書を世に問うておられます。こうしたお仕事を積み重ねてこられた瀬畑氏に対し、運営委員会での議論を踏まえて論題を提示し、問題提起をお願いしました。講演で瀬畑氏は、自己紹介に続いて、安倍政権下の公文書をめぐる不祥事、情報公開と公文書管理の関係、近年の公文書管理に関する政策、アーキビストの未来、へと議論を展開されました。担当運営委員として重要と受け止めた論点は以下の二点です。
その第一は、文書管理を軽視する日本官僚制のあり方を変えていくために「政治の質」を向上させる必要がある、とする議論です。これは、公文書管理には「政府や政治の質が反映される」とする三木由希子氏の指摘を受けたものですが、これをどうやって測定するのかという質問に対して瀬畑氏は、組織の意志決定プロセスが文書によって跡づけられること、それが可能となる文書が残されること、と回答しました。瀬畑氏は講演で、文書を作成せず、残さないというあり方が明治以来積み重なっているうえ、情報公開法以後は「私的メモ」や「未作成」を口実とする公開逃れが横行していると指摘しています。文書管理をめぐる今日の不祥事は根が深いわけですが、講演にもあったように、「立場に対する責任」、つまり公的な責任の「個人の権限」へのすり替えを許す文化を、組織の問題へと変えていくことが改革には不可欠でしょう。しかし2017年12月の公文書管理法のガイドライン改正は、恣意的な文書管理が促進される懸念をはらむものでした。
第二に、デジタルアーカイブの普及がアーキビストのあり方を変えていくと予想されるが、その段階においても、資料の基本的な取り扱いについては、むしろこれまで以上にアーキビストに要求される資質として重要となるのではないか、ということです。フロアからの、資料の原本性や出所原則と公文書管理やデジタルアーカイブとの関係をどう考えるかという質問に対する回答で瀬畑氏は、「アジ歴」が研究者の思考を断片化させていると指摘、例えば御署名原本と一般文書が並列に出てくる、あるいは決裁に至らない中途段階の文書がそれとわからない形で見つかるのがデジタルアーカイブであり、公文書簿冊の構造把握や原本性といった基本的な歴史資料の取り扱いが危うくなると警鐘を鳴らしました。歴史研究者としての資料批判への姿勢が、こうした論点を導いたものといえるでしょう。それゆえ瀬畑氏は、教育の場で利用者を育てることの重要性を主張するのです。
最後に、意見交換で浮かび上がってきた、アーキビストの存在意義に関する議論を紹介します。瀬畑氏はフロアからの意見に賛成する文脈で、アーキビストの役割は「整理」に止まらず評価・選別に踏み込み、利用者へのレファレンスを行うことにあり、それは政策の評価をガイドすることを意味すると指摘しました。瀬畑氏が講演で、情報公開法と公文書管理法は民主主義のための車の両輪と主張したこととも関わり、政策を評価する市民の側に知的資源として何があるのかを気づかせてくれるのがアーキビストなのです。そしてアーキビストには、デジタル時代に対応した記録文書の取り扱い能力を有し、読み方や理解の深め方という面で市民をサポートすることが期待されます。瀬畑氏は最後に、アーキビストになりたい人を増やすことが大切と指摘しましたが、そのためにも専門職としての職務や要件を確立していくこと、そして職務の魅力が市民社会に認知されることが求められるのです。
以上が、第151回例会の要約です。これまで全史料協近畿部会では、アーキビストの職務基準書(第145回例会)や、近代日本における公文書管理の歴史(第150回例会)をはじめ、記録文書の管理と利用をめぐる議論を積み重ねてきました。瀬畑氏の講演は、期せずしてこうした議論の延長線上に展開され、近畿部会の活動への再認識を促すものでもあったと、担当委員として受け止めています。地道ではあるが継続的な活動を力にしていきたいと感じた例会でした。
参加記
講演「公文書管理法とアーキビストの役割」を拝聴して
嵐 大二郎(徳島県立文書館)
去る令和元年6月15日(土)、京都府立京都学・歴彩館小ホールにおいて、「法の下で公文書を使うということ」をテーマに、近畿部会第151回例会が開催された。私は、学校現場から当館へ異動して3年目を迎えた。学校現場では全ての教員が公文書を作成するわけではないため、私自身、「公文書」という言葉には馴染みが薄く、恥ずかしながら公文書管理法の存在を知ったのは当館に赴任してからだった。当館においては古文書担当という肩書きになってはいるが、文書館に勤務する者として少しでも戦力になるためには、公文書管理に対する理解も深化させねばならない。今回は自身の研鑽の意味も含めて参加させていただいた。
瀬畑源氏は、戦後の象徴天皇制とその形成・定着過程についての研究に取り組まれておられる。宮内庁所蔵の歴史資料の閲覧をきっかけに、公文書管理についての見識を深められたそうだ。冒頭で「私はアーキビストではなく歴史家であるので、アーカイブズを利用する立場の者としてお話しをしたい」と述べられていた。講演の前半、近年相次いで起こった公文書を巡る不祥事について言及された。「公文書管理について、与野党の議員も質問する記者もきちんと理解していない」と指摘されていた。これは、公文書の何たるかを理解していないという意味だけではなく、公文書を巡る不祥事が起こった際には個人の責任追及に終始し、組織の問題とする着眼が不足しているということでもあった。さらに、公文書がきちんと表に出ないことで、職務が正しく遂行されたことが明らかにされず、結局は信用の失墜につながる、と隠蔽や改竄の非も明らかにされていた。私が以前受講したアーカイブズ・カレッジの講義の中においても、「公文書を保存し公開することは、業務が公正におこなわれたという正当性を担保するもの」と、同様の指摘がされていたことを思い出した。公文書を識る方々にとっては至極当然のことが、公文書を実際に扱う現場へはなかなか浸透していない現実を再認識した。公文書管理法がありながら現場での不祥事が続発する状況を、瀬畑氏は「法と実務との理想の差」とも表現されていた。
後半は、アーキビストの職務や資格化について話されていた。「アーキビスト」の職務基準を定めることは様々な意見があって困難ではあるが、それでも資格化の意味は十分にあると明確に述べられていた。これを受けて、講演後の質疑応答では「アーキビストの有用性」についての質問が出された。瀬畑氏はこれに対し、レファレンス能力に着目されていた。研究者ではない一般の方々の多くは、資料の探し方・調べ方がわからない。それらを補い、導くことで、特に一般のユーザーからは有用性を感じてもらえるのではないかと述べられていた。質問者が使われた「有用性」という言葉と、瀬畑氏の回答で気づかされたことがあった。当館では3年前から「教員のための文書館活用講座」を実施している。当館の収蔵物の中から、授業で使えそうな、それでいて印象的な資料を紹介する企画を実施してきた。今思えば「当館にはあんな資料も、こんな資料もある。是非、授業に使って下さい」という示し方であった。これは受講者にとっては半ば自慢話を聞かされているのに近く、資料の探し方・調べ方を伝えるレファレンス力を発揮したとは言えない。当然、有用性を示すには至っておらず、その証拠に、受講後の先生方からの問い合わせはほとんどない。教員のみならず一般のユーザーに真に活用してもらえるよう、アーキビストの「有用性」を示す努力と工夫をしていかねばならないと強く思った。
瀬畑氏は質疑応答の中で、アーカイブズのデジタル化は研究のあり方を変えているのではないか、という指摘もされた。原本に触れないことによって、その資料のもつ特徴を正確に理解しないままに研究が進められているケースがあるという。当館のデジタルアーカイブ化もこれから進んでいく予定である。より広く活用しやすいようにという、それこそ「有用性」に立脚した取組であることには違いないが、瀬畑氏の言われるような問題点もあることを、資料を提供する側としては心に留めておく必要があると感じた。
本会のような場に参加すると、アーカイブズ学やアーキビストに関する自身の無知を再認識して焦りを覚えるが、新しい知識や考え方を確実に得ることができる。何より主催者や参加者の方々からアーキビストとしての矜恃を感じることができ、大変刺激を受ける。今後の例会にもできるだけ参加しながら、弛まぬ自己研鑽を行っていきたい。
法の下で公文書を使うということ
―公文書管理法とアーキビストの役割―を聞いて考えたこと
元(ウォン) ナミ(京都大学大学文書館助教)
2019年6月15日(土)、京都府立京都学・歴彩館小ホールにおいて、「法の下で公文書を使うということ―公文書管理法とアーキビストの役割―」をテーマに近畿部会第151回例会が開催された。講演者の瀬畑源氏は日本近現代史(天皇制論)の研究者であり、多くの行政情報及び公文書館資料を利用したことがきっかけとなって、公文書管理制度の研究を進めてきた。瀬畑氏は近年日本で発覚した公文書管理の不祥事から現行の公文書関連制度の様々な問題について分析した上で、アーキビスト資格制度の整備及び専門性の強化に関する見解を述べた。ここでは瀬畑氏が指摘した「公文書の質」とアーキビストの専門性強化といった論点について感想を述べてみたい。
瀬畑氏は多くの公文書の利用経験から昨今の公文書管理の問題の根底に「政策過程の詳細がわかる文書」が作成されない、あるいはそのような文書が公文書館に移管されない慣習が「公文書の質」を低下させていると指摘した。確かに公文書館等に移管された決裁文書は主に政策の承認と最終的な決定事項のみが記載されているものが多い。作成機関や担当部局によっては政策の経緯及び過程が具体的に説明されていないものも多く存在している。そのため場合によっては政策過程が書かれていない公文書が保存されることを「中身がない」「使い物にならない」「公開されても税金の無駄」と評価する利用者も少なくない。
周知の通りこれまで日本では歴史的に重要な価値を持つ公文書が保存されない状況を改善するために、公文書館やアーカイブズ資料を保存する機能を拡充するための様々な努力が行われてきた。特に近年では公文書管理法が制定され、行政機関における公文書の作成、管理、廃棄及び公文書館への移管(保存)までの一連のプロセスが明文化された。過去に比べて歴史的に重要な公文書等が保存できる公文書館の体制が整ったのは大きな成果ともいえる。しかし、歴史的に重要な公文書の移管には合意があったものの、その文書の作成状況や内容については真剣に議論されてこなかった。例えば、間違って作成された公文書が公文書館に移管されたとしても、現行制度の下ではそれを受け入れるしかない。その場合、公文書館では移管を拒否するか、公文書の作成管理を指導・監督するか、公文書館での保存を取りやめるか、といった制度改正までを念頭に置いて議論を深めていく必要があるかと考える。
また瀬畑氏はアーキビストがずさんな現用文書の管理を見直す専門性を備え、レコードマネジャーの領域まで進出することが望ましいと提案した。少し気になることはアーキビストの能力と役割がいつの間にか文書の作成から保存、公開まで、つまり現用記録の作成から非現用記録の保存にわたって管理・監督できるオールマイティーな存在に近いものとして要求されていることである。現行制度下で「何でもできるアーキビスト」は「公文書の質」と「公文書管理の質」を向上させるために、どれほどの権限を持って専門性を発揮することができるだろうか。レコードマネジャーとアーキビストの業務分掌が比較的明確に区分され、さらに職務分担が細分化される諸外国に比べ、アーキビストが「何でもできる」ことを果たして「専門性」と呼べるだろうか。
以上、個人的な感想にすぎないかもしれないが、瀬畑氏のような公文書の利用者に「公文書が使えてよかった」と思わせるためにもアーキビストは「公文書の質」と自らの「専門性」向上のために努力する必要がある。国等が提示する規則や基準とは別に、公文書管理担当者やアーキビスト同士が引き続きそれぞれの現場における公文書管理問題に積極的に向き合い、既存の制度や慣習を改善させていくことが望ましいのではないかと考える。