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 The Japan Society of Archives Institutions Kinki District Branch Bulletin
 全史料協近畿部会会報デジタル版
 No.52  2017.6.28 ONLINE ISSN 2433-3204
 第133回例会報告
2016年(平成 28)6月14 日(金)14:40〜16:20
京都府立総合資料館 2階 会議室

「岡山県立記録資料館開館10周年
 ―それでも初志は変わらず―」を報告して

  定兼 学(岡山県立記録資料館 館長)

はじめに
 例会で報告した大部分は、岡山県立記録資料館ができるまでの経緯であった。開館までの長い準備期間に様々な挑戦をし、失敗を重ねたことが今日の岡山県立記録資料館設立趣旨となり、館の基本方針、すなわち初志となっていると思ったからである。この会報では、冗長になって申し訳ないが、わたくしの自分史も交えながら、その時々の思いを述べて報告要旨に代えたい。

一 前史(1) 全史料協に導かれて
 岡山県における文書館設立運動は、岡山地域の郷土史研究をしている人々が中心になって昭和40年代から始まった。ここでいう文書館は古文書館であり、当時岡山県総合文化センター(県立図書館)の郷土資料室が古文書の調査収集をしていた。郷土資料室の発展をイメージした文書館である。しかし、今日の記録資料館の母体となる組織は昭和53年発足の総務部県史編纂室である。県史編纂室では、編纂事業と平行して古文書収集や公文書の選別収集も進めていた。わたくしは昭和57年に県史編纂室の配属となり、近世部会の一兵卒として従事するとともに将来文書館を設立することを見込んで古文書の調査、撮影、収集もした。文書館の設立準備は職員が勝手にしていたのではなく、全史料協の大会に参加するなどして文書館の必要性を認識していた県史編纂室の先輩職員や委員の先生が知事の了解を取り付けて、県史編纂のミッションに文書館準備を加えていたからである。
 そうなってくると県史編纂目的に特化した古文書収集ではいけないことになる。大量の古文書群を前に県史編纂のための史料採集作業と資料群整理作業との挟間でジレンマに陥ったものである。在籍中に約200件の資料群調査をしたが、多くの未調査・未整理資料群が残った。また近世部会ではあっても公文書の選別収集に立ち会った。古文書しか見ていない者にとっては新鮮であった。特に役所の情報収集能力には驚いた。選別にあたっては、まずなによりも業務内容を知らなくてはならないと実感した。そして業務担当者に説明できる選別基準の策定の必要を覚えたのであった。今から思えば、ジェンキンソン理論、シェレンバーグ理論、ハンス・ブームス理論等を実践しながら学んだことになる。
 このとき大変勉強になったのが、全史料協の全国大会・研修会である。多くの知人や指導者にも恵まれた。入門者でも熟練者でも学べるこの全国大会・研修会は実に有意義であると思う。今日のご時世ではなかなか難しいのであるが、大会後には年休をとって地域巡りもしたので、知的、精神的にエネルギーの充填ができた。わたくしがはじめて参加した大会は昭和61年栃木大会である。この大会後には那須山に登ることができた。この頃わが県では人見彰彦氏が熱心であり、氏はICA大会にも2度参加している。当時のわたくしは氏ほど情熱はなかったが、全史料協に導かれたことは少なくない。
 県史編纂事業の終了は平成3年であるが、平成元年7月に「公文書館の基本構想について」答申が出て翌2年から組織名は公文書館整備対策班となり、残った県史編纂と公文書館整備を進めることとなった。

二 前史(2) 利用者の力を実感
 わたくしは岡山県史の近世史部分の刊行がおおむね終わりつつあった平成元年に岡山県総合文化センターの郷土資料室の配属となった。郷土資料室では新県立図書館構想に取り組むこととなった。当時図書館と公文書館とは併設複合で新設する構想を進めていた。先の「公文書館の基本構想について」に関わって、わたくしは郷土資料室の責任者として構想検討委員会の先生に図書館で所蔵している未整理なままの古文書約3万点を公文書館に移管することが望ましいと説明した。新設図書館の郷土資料コーナーを構築するにあたって、図書館に古文書の整理解読能力のある職員を継続的に配属することが困難であったからである。ただし、古文書類のどの部分で切り分けるかは議論が開館まで続いた。現在図書館に残っている古文書は図書登録してデジタル公開が充実している。
 図書館の郷土資料コーナーは、併設する公文書館と相乗効果で充実した岡山県の「貌」となる自信があった。平成6年開館予定の建築構想を受け、郷土資料コーナー他のフロアー構成の図面描きは実に楽しかった。平成2年、3年のころである。その矢先、県が公表した図書館・公文書館構想について県民から異議申し立てが出て、説明会や見積もり変更などでしばらく滞ることとなった。このとき、図書館への県民関心の高さには随分驚いた。新県立図書館の利用者数が開館後10年連続で全国一になるのはむべなるかな。わたくしは、利用者あっての館であることを改めて学んだ。

三 雌伏の時代(1) 専門部署の自負あり
 平成4年、わたくし総務学事課公文書館整備対策班に配属された。ここからが、長い長い助走期間となる。資料整理を担当したのは、平成7年度まで人見彰彦氏、在間宣久氏と3人、平成8年度から15年度までは在間氏と2人の体制である。両氏は公文書館設立に強い意欲を持っていた。ところが両氏とも特命業務を受けていた関係もあり、細かな部分はわたくしに自由に任せてくれ、それに修正を加え班の意見とできた。感謝している。平成5年1月に県立図書館・文書館の基本設計がまとまり、平成9年秋開館予定を公表した。同年4月から所属名称が文書館整備対策班に変更した。公文書だけではなく、県史編纂室時代以来収集している古文書の原物と複製物(マイクロフィルム等)および県立図書館郷土資料室保存の古文書群も保存するわけだから公文書館では誤解をあたえるということで文書館の名称ですすめることとなったからである。
 当時岡山県財政は非常に厳しい時代を迎えており、平成6年度予算に新県立図書館・文書館建設費の計上が見送られた。すると所属名称も文書整備班となり、「館」が消えた。基本設計がまとまり、文書館部分のフロアー構成の図面描きなど、開館に備えて様々な準備を楽しく進めていた矢先であったので、このときの失意はなんともいえなかった。未整理資料はまだまだあるし、ここで公文書収集を止めてしまってはこれまでの準備が水泡に帰してしまう。別段わたくしではなくてもよかったのかもしれないが、行きがかり上できるまではやめたくなかった。これは在間氏も同意見であった。
 この時さいわいしたのは、わたくしたちは「ノー天気」で楽観的だったことである。すこし考え方を変えて、学生アルバイトを使いながら、また卒論研究などの利用者への資料提供を通じて、「地域研究の拠点にしてやらむ」という大志を抱いて次のステップを模索した。思いついては各所に打診・提案する。そんな「模索」は、すべて陽の目を見ることはなく大志は「妄想」に終わった。わたくしとしては、いわゆる「座敷牢」で飼い殺しのような気持ちでもあった。口の悪い連中は、「何もせずに資料だけみていていいねえ」の皮肉を随分もらったものであるが、県庁広しといえども資料保存する唯一の専門部署という自負があった。
 所属が県庁公文書を管理する総務学事課にあったことはよかった。総務学事課の文書担当職員が年限廃棄を指導し、同時にわが班が公文書の選別収集を行えた。館のできる見通しは立たなくても、資料収集だけは進められたのである。保存資料の多さを「人質」にして当局になんとかするよう迫ったものである。
 準備中は、今日いうところの「公文書館機能」は備えていた。残念だったのは、調査研究した成果を発表する独自媒体や講座などの独自企画を持てなかったことである。この教訓は現在まだ「準備中」というかたちで頑張っている倉敷市総務課歴史資料整備室に伝え、同市ではホームページや紀要を完備し、歴史講座、古文書講座、そして期間限定の展示会も行っている。職員の負担は大きいが、市民利用者と向き合う場面があればあるほど、充実した施設になるとわたくしは思っている。
 以後、平成9年には県立図書館・文書館建設など大規模事業を3年間凍結することとなった。県財政の厳しさは大規模事業凍結に終わらず、県内各地にあった保健センターや農業改良普及所など出先をはじめとする諸機関の改廃にも切り込んでいる。事業所や組織統廃合のたびにわれわれは「座敷牢」から這い出て公文書の選別収集を行った。このとき、公文書の選別収集には、中枢で集約している意思決定資料だけではなく、県民生活に直面して業務している資料なども重要であることを学んだ。また、組織機関がなくなった時にその組織の存在の証を担保する場所は公文書館しかないと思った。

四 雌伏の時代(2) 初志が固まる
 平成12年には県立図書館は凍結解除となったが、文書館は「新たな施設の整備は白紙とし、既存施設の活用を検討する」とされ、図書館との併設案は消えた。そこで、わたくしたちは既存施設探しに走った。浮かんでは消え、消えては浮かぶなかで、平成14年3月26日国立病院跡地に文書館を整備することが決まった。そこでまた図面引きと基本計画策定作業を楽しむことができた。
 平成14年8月県議会総務委員会で認められる「岡山県立文書館(仮称)整備基本計画」で、基本理念を「県民の記録資料を保存利用する拠点」とした。開館は平成17年に決まった。
 これより開館に向けて全力疾走するのであるが、同時並行で市町村合併と県立高等学校の再編に伴う公文書収集があった。市町村合併に先立ち県内78市町村すべての公文書保管状況の調査に出向いた。調査と同時に県が文書館(仮称)を作るので、資料保存等での協力を要請し、基礎自治体でも公文書保存体制を整えるようお願いして回った。公文書館法第3条の説明である。しかしまだ一つも公文書館ができていない。再編される23の県立高等学校にもすべて回った。国の出先機関にも回ってみたが、これは歯牙にもかけられなかった。国立公文書館は出先機関の資料をどれほど収集できているのだろうか。市町村立の小学校、中学校にもそれぞれの教育委員会の了承を得て調査収集にでかけた。
 以上の経験から、第一に、県内各地に公文書館または公文書館機能を有する施設の範たらん県立の施設を作る。第二に行財政改革で改廃する県組織の公文書をきちんと残す。第三に道州制等で県が無くなろうが、過疎等で地域が無くなろうとも県や地域の公文書等を残す手立てを考えなくてはならないという初志が開館前に固まったのであった。

おわりに  
 開館に先立ち、記録資料館条例の策定があった。その起案者となったのは光栄であった。これまた実に楽しく作業できた。まず、名称。これは通常は仮称を取って「文書館」という意見が体勢であった。しかし、わたくしはブンショカンにもモンジョカンにもしたくなかった。丁度この年県庁組織が課長―班長―班員体制となり、現場の班長の立案を尊重すると知事が言い始めた。実際大勢は従来方式の立案が多かったようであるが、わたくしは文書館整備推進班長であったので、班長意見を幹部会にかけて欲しいと願い、平成14年に策定した基本理念で使った「記録資料館」案を提出し、了承された。
 初代館長は前年退職した在間宣久氏が嘱託でなり、わたくしは実務を担当した。在間氏は館のモットーを「小さな建物大きな役割」といい、わたくしたちの社会的責任の重さを強調された。わたくしは、その役割を県民そして県職員によく知ってもらうことに腐心することにした。開館当初より収集、整理、保存の業務の充実に加えて、普及啓発、調査研究、刊行物発行、機関間連携など館から打ち出すイベント事業にも力を注いだ。そして、利用者、展示観覧者、講座受講者等への丁寧な対応、いわゆる顧客重視を心がけた。おかげで、やがて利用者の中から同好会やボランティアを生むことができた。その後わたくしは副館長2年、館長6年と勤めて来たっているが、その路線は変わっていない。そのため僅かな職員はてんてこ舞いの日々が続いている。しかし、こうした様々な取り組みにより職員は実力をつけ、利用者の信頼は厚くなった。まだとても充分とはいえないが、県民の記録資料館および資料保存への理解が深まりつつあると感じている。これが開館10周年を迎えた実感である。しかし、前述の初志はどれも未完である。
 ここまで一人称のわたくしで述べてきたが、これが記録資料館の初志である。これからのアーカイブズ界はどのように変化するのか、わたくしはよくわからない。そのトレンドの影響を受けて技術的な改変や軌道修正はあるだろう。しかし岡山県立記録資料館は先の初志を忘れず、全史料協・近畿部会をはじめとする諸氏・諸機関の実践や英知を学びながら、永続・発展の努力を続けるはずである。
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